毎年注目を集める Apple の発表イベント。2025 年 秋の内容は正直イマイチでしたね。
Apple Event 2025 秋の感想はこちら

そんなこともあり、私の目を引いたのは新しい iPhone でも Apple Watch でもなく――画面の横に常時映し出されていた手話通訳でした。私の記憶が確かなら、Apple Event の Web 配信で手話が並列表示されていたのは今回が初めてのこと。
もちろん、聴覚障害のある人への配慮であることはすぐに理解できます。けれども配信には多言語字幕も用意されていますよね。
仮に手話が字幕言語を自由に選択できない現地参加の聴覚障害者向けアクセシリティなのだとしたら、「配信にまでわざわざ表示する必要はないのでは?」という素朴な疑問が浮かびました。
字幕があれば十分なのか?

多くの人にとって「情報は字幕で補える」というのが自然な発想かもしれません。実際、私がそうでしたからね。ところが、実際にはそれが誤った認識であることが、調べるうちにわかってきました。
重度の聴覚障害者に当たる「ろう者」( = 補聴器などを使用しても音声が判別できない・耳が聞こえない状態の人) にとって、字幕は必ずしも「第一言語」ではないとのこと。
手話と字幕 ( = 書かれた言語) は、単に表現方法が違うだけでなく、言語体系そのものが異なるのです。
ろう者にとっての第一言語 = 手話

多くのろう者が、家庭や学校で最初に自然に身につけるのは「手話」です。
一方、日本語や英語といった書記言語は、聞くことが難しいため、後から「第二言語」として学ぶケースが多くあります。
そのため、字幕は「外国語の字幕を読む」ような感覚に近く、理解に時間がかかったり、ニュアンスが十分に伝わらなかったりすることもあります。
逆に、手話であれば母語としてダイレクトに意味や感情を受け取ることができるのです。
Apple があえて “並列表示” した理由

Apple Event の配信を見ていた当初、私が正直に抱いた感想をお伝えすると「せめて手話の表示非表示を切り替えられた方が、プレゼンテーションが大きく表示されてもっとインパクトを出せたんじゃね?」でした。
でも、ここから一年間の業績を大きく左右するであろうはずのイベントで、Apple はそうしなかったわけですね。
ではなぜ Apple は、手話を常時表示したのでしょうか。そこには、次のような意図が見えてきます。
- ブランドメッセージ
- Apple が大切にする「多様性・公平性・包括性 (DEI: ダイバーシティ・エクイティ & インクルージョン)」を、イベントを通じて世界に発信した。
- 昨今の DEI 廃止の流れに対して、Apple はこれを重視し続ける姿勢を貫いている。
- アクセシビリティの確実性
- 字幕は視聴者の設定に依存するが、画面に合成された手話は必ず目に入る。
- アーカイブでは手話の有無を選択できるようになっていて、手話が不要な人への配慮もなされた。
- 国際基準との整合
- WCAG 2.2 が推奨する「字幕に加えて手話通訳を提供する」という方針に沿った。

ここで登場するのが、国際的な Web アクセシビリティ基準である『WCAG 2.2』です。
その中の「達成基準 1.2.6: 手話 (収録済) (レベル AAA) 」では、事前録画された映像コンテンツに対して字幕だけでなく手話通訳の提供が求められる (AAA レベル) と定められています。
「AAA レベル」と言われてもピンときませんよね。これは WCAG 2.2 の中でも達成要件が厳しい最上級レベルのもので、一般的に求められるレベルから逸脱した発展編に値します。
我が国総務省の Web サイトですら、優先度の高いページに対してようやく AA レベルに対応させる程度であることから、AAA の特殊性がいかほどのものかがうかがい知れます。
優先度が高いと判断したページ (サイトマップの各項目及びアクセス数が多いページ)について、ウェブアクセシビリティ適合レベルAAの基準を満たすものとする
以上のことから、一般的には字幕があれば十分のはず。しかし Apple は「字幕があれば十分」という考え方ではなく、手話が第一言語である人へのアクセシビリティ確保を前提としてイベントを制作したのです。
結論: 手話が映し出す Apple の哲学

今回の Apple イベントでの手話通訳は、単なる利便性のためではありません。それは、ろう者にとって第一言語である手話を尊重し、全ての人が同じ体験を共有できるようにするという、Apple のインクルーシブデザインの思想を示すものでした。
そしてその選択は、WCAG 2.2 の国際基準とも重なります。Apple は基準をただ守るのではなく、それを積極的に「見える形」で実践することで、世界に対して自らの哲学を発信しているのです。
事実、今回の Apple Event がなければ私はろう者という単語すら知らず、また手話等について調べることすらありませんでしたから、一定の効果を産んでいることは確かなことでしょう。
新製品の発表と同じくらい強く、「Apple という企業がどんな価値観を大切にしているか」を世界に示した演出だったのではないでしょうか。
これで発表された製品がもっと魅力的だったら言うことなかったんだけれどね。ちゃんちゃん。
「AirPods Pro 3」は今回の新製品の中から私が唯一購入したもの
